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安堵に潜む不安

日本での聖火リレー、どうやら大きな事件にはならずに過ぎ去った模様。

ネットニュースで読んだ記事の中に『やっと長い一日が終わった』というようなコメントが書かれてあった。

さすがに現地は緊張感のある一日だったことだろう。

大きなニュースにならずに安堵した気持ちは、とてもわかる気がする。

でも。

本当に終わったのだろうか、という考えも同時に感じる。

これまでの大きな戦争は、常にその後に、哲学や思想も含む『宗教観』の違いのようなものが、常に絡んでいるといえる。

この中国とチベットの問題が、そういうものに発展しないとも限らないと、何かしらの危機感を煽られてしまうのは、私だけではないだろう。

どうしても不安になってしまう。

……本当に終わったと安堵してよいのか?と。

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このオリンピックの聖火リレーは、そういう意味において、平和とは何ぞや、共存とはなんぞやという、根本的なものを市民レベルで考えさせてくれる、よいきっかけにはなっている。

けれど、長野の心配を遠くで傍観した私が、やはりどこかで他人事のように感じているのと同じく、お隣の大陸で起きている大きな問題を、海を挟んでいるがために、もう過ぎてしまった事のように感じている日本人は多いのだとも感じた。

そして。

その問題の本質が一体なんなのか、正直言って(私を含め)誰かに説明することが出来ないくらい無知・無関心なのだ。

先刻、仏で某K国の拉致行為があったことが報道され激震が走ったそうだが、それまでに日本の拉致問題が、国内ではあれほど話題になったにもかかわらず、仏ではほとんど知られてていなかったらしい。

今の中国・チベット問題における、日本の立場に類似する。

結局、何であっても。
いざその問題が自身に降りかかるまでは、当事者が受け止めているほど深刻には語られないのも、事実なのだ。

現実とは、いつでもそんなものなのかもしれない。

だからこそ。

この中国とチベットの問題においても、ただ安堵し無知を装い傍観するだけでは、この本質的問題点は、何も解決はしない。

怪我人や死者を出してまでも『この機会を!』と、両国の関係者が必死になって訴えるのには、そういう理由もあるのだろうと気がつく。

ただの聖火リレー妨害問題としてだけ受け止め、終わった事としてではなく。

そこから先、私たちがじっくり考え、どう受け止めるかが問題なのだ。

まずは知ること。

そして、オリンピックが終わりではないという事。

願わくば。

この世界レベルの『平和の祭典』が無事に挙行され、その先も共存とは何かを考え、世界の平和を心から望み祈ることのできる生き物でありたいと思う。

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***チベット問題の有力参考サイト***

長田幸康氏のBlog
『チベット式』 チベットの今、そして深層 
http://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/2008/03/2008_dafb.html

(うちがトラバできない設定にしてあるので……アド貼らせて頂きましたっ^^;)

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